ウマ娘

最近、アプリゲームのウマ娘をやっている。

 

子どもの頃のようにゲームが続かなくなった今現在で、こうしてコツコツと楽しめるコンテンツは久しぶりだ。

デレステも一か月と持たなかった(気がする)し、スパロボも最近では滅多にやらなくなってしまった。スマブラも然り。そういえば廃深だけは珍しくクリアまで行けた。考える力も衰えを感じているけれど、やっぱり根本的なところで熱中する気持ちが薄くなっていることを感じてしまう。年のせいなのか、他になにか問題があるのか。まだよくわからない。

 

ウマ娘は、今のところ楽しい。

友達から教えてもらって、順調に育てている。ストーリーはまだ殆ど読んでいない。

育成した回数は40回以上で、競技場のチーム編成の穴を埋められたのはつい昨日のこと。

初うまぴょいはダイワスカーレットだった。この娘は4回以上かかった。

今手がかかっているのはマヤノトップガンで、7,8回程チャレンジしているのに中々うまぴょいまで到達できない。ナリタブライアンが有馬で行く手を阻む。強い。

好みのウマ娘メジロマックイーン。強くてかわいい。つい目で追ってしまう。

ゴルシも好き。ミホノブルボンタイキシャトルも好きだけど、まだ来ていない。早くガチャで引きたい。

 

パワプロのサクセスに似た作りの育成。身に着いた力がランクとして現れるわかりやすさ、周回するごとにわかるイベントへの対処法やレースごとの特徴、キャラクターの特性。そしてレースの確実性が無いギャンブル要素。それが楽しい。

レースでは、シンボリルドルフ会長やゴールドシップがいると警戒してしまう。

そしてその時ごとにかわるレース展開や能力の発動時期。ゴール前で鍔迫り合いをする展開なんかは、毎回の4倍速でも思わず目を凝らしてしまう。

その時、感情が揺れていることを実感する。スマブラでも負けると悔しいけど、それは例えるなら、鬼滅の刃の時透無一郎くんがからくり人形に相対する時の表情みたいな気持ちで、心の波に変化が少ない。水面を撫ぜるそよ風のような感じ。

 

一方で、珍しく興奮する自分がいる。

なぜか。真剣な顔で走る姿が映るからだろうか。それとも、自分の判断で鍛えた彼女がどのように勝負を繰り広げるのか、予想のつかない展開に揺すられるからだろうか。

現実では不確実なことをしたがらない。しかしゲームでは失敗が許される。

ゲームやアニメは、メタ的な意味で、その限られた枠を超えることはない。だから安心する。唯一裏切らない存在であると言ってもいい。だから昔から、人と接するよりもマンガ、アニメ、ゲームに心を開いてきたし、癒されてきた。

人は信じられない。家族に対しても同様で、自然と距離を置いてしまう。

関わり方がわからない。自分でも表情に乏しく、言葉数が少ないことはわかっているけれど、どうしても避けてしまう。積極性が無い。

迂闊に放った言葉が自分を傷つけることを異様に恐れている。手を振るった親。頭の足りないせいで勘違いし、手を振るい、返り討ちに合った少年の頃。人と関わりたくない。自分はおかしな奴である。

しかし孤独は辛い。誰とも話さず、外へ一歩も出ない生活が当たり前にある。頭の足りない奴。必要とされることがあまりにも少ない。だけれど、必要とされても困る。自信がない。知識が無い。考える力もない。醜い。価値が無さ過ぎる。

 

直視したくない言葉が次々と出てきてしまう。しかしそれも自分なのだろう。

ウマ娘のキャラクター達はキラキラしている。商業用の娯楽なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、魅力的な輝きでいっぱいだ。

走って、歌い、踊る。最初見たときは、ウイニングライブを鼻で笑ったものだけれど、もうすっかり慣れてしまった今となってはサイリウムを振る応援団の一人だ。

泥臭い努力。しかしひたむきに目標を追う。眩しい。青春の一ページ。

そこには喜怒哀楽がある。悩み。悔しさ。笑顔。汗。涙。人としての自分が本来持っているはずの、いや今も持ち続けているのにすっかり忘れてしまっている感情の揺れ動き、健全な肉体としての誰彼憚ることのない発露。それを、アニメチックに味付けされているにしても彼女達へ見出しているのかもしれない。

 

久しぶりに、ファンアートや二次創作のマンガなんかも漁っている。

テイマクはいい。シンボリルドルフとテイオーの関係も面白い。

 

BNWの誓いが見たい。dアニメストアには配信されていない。

アニメは一期、二期を二周した。うまよんも二周した。あれだけ長い距離を爽快にダッシュできるアニメを知らない。走る行為自体に快感を覚えるのかもしれない。

陸上をしていた頃、すぐへばった。だからずっと足を踏み鳴らせる演出が心地いい。

クオリティも高くて、2018年の一期と2021年の二期をつなげて見ても違和感がまるでない。目の肥えている人には違うかもしれないけれど、マジンガーZイデオンだって見てきた自分にすれば些細なことだ。CGだけちょっと堅いかな。うん。

 

書いていて、少し気が晴れた。好きなことを話せる時間が、なかった。だから嬉しい。

好きなことを語り合える時間なんて、尊い時間以外の何ものでもない。そして、そんな時間が最悪に近いほど少ない。

そうか、だからファンアートが好きなんだ。あの描かれた好きという感情を眺めているだけで、言葉じゃないメッセージを受け取っている。癒される空間。すれ違いにも等しいほどのやり取り。

 

誰も自分には興味が無い。自分は何が好きかを語る機会なんてそうそうない。

なにが好きかというのは、自分は何者であるということを語るに等しい。仁村ヒトシさんが言っていたことがここで出てくるのか。しかしそうだ。自分に備わった感性が、これが好きだと叫んでいるということは、すなわちその感情自体が自分の表現であって、自分そのものに他ならない。

言っていてちょっと意味が分からなくなってきた。

 

でも、仕事においては業務についてだけ求められて、コミュニケーションも上手に取れているとは言えず、私生活でも閉塞的な環境に身を置いている自分にしてみれば、そういった個人的なやりとりをする機会はものすごく貴重なのだと思う。やりとりではなくても、自分が「好き」という感覚を認識できる時間。からっぽではないという、安心感。自分は自分でいてもいい、自分があるということの、確認。足りていない。圧倒的に、足りていない。

 

飢える。役に立たない人間でも、同じ言葉で盛り上がれる存在はきっと価値がある。